ダーバンと言えばアラン・ドロン、そして・・・まさかの松本です

松本 知彦 for Private Time/2015.12.02/私の履歴書私の履歴書

皆さんはダーバンというメンズブランドを知っていますか?
インポートだと思っている人もいるかもしれませんが、MADE IN JAPANにこだわる国内の老舗スーツブランドなのです。

imgこれがダーバンのWebサイトです

ダーバンといえば、やっぱりアラン・ドロンじゃないでしょうか?
と言っても、若い人たちはほとんど知らないでしょうね。
きっと知っているのは、竹野内豊が出ていた広告くらいでしょう。
僕が子供の頃、ダーバンのテレビCMにはアラン・ドロンが出ていて、それがすごく有名でした。
CMの中でアラン・ドロンが言う「ダーバンセロリゴンデロモデアム」とか言うセリフがすっごく流行ってて、学校でもみんなマネしていました。
それはフランス語だというのを大人になってから知りましたが。
「D'URBAN C'est l'elegance del'homme moderne. ダーバン、それは現代を生きる男のエレガンス」という意味みたいです。
小学校の時にお母さんが買ってきてくれたイクシーズというブランドのトレーナーも、ダーバンだったというのを最近知りました。
アラン・ドロンが出てたので、てっきりインポートブランドかと思ってましたが、純正国内ブランドだというのを知ったのも大人になってから。

imgこれがジャパニーズダンディの表紙(穂積さん)と中身に出ているワタクシ。

img撮影は2年前でしたが、既に年を取って顔が違う気がしますが、、、汗

さて、そんなわけで小さい頃から身近で慣れ親しんできたダーバンですが、恥ずかしながらこの度、歴史あるこのブランドのWebサイトに出演させていただくことになりました。
きっかけはジャパニーズ ダンディという本です。
日本における現在進行形のテイラードスタイルを紹介した写真集。
以前このブログでも紹介しましたね。
http://blog.10-1000.jp/cat39/001196.html
テーラードとは、硬くしっかりと仕 立てられた服のことを差します。
ジャパニーズ ダンディは、130人のダンディな男たちが、テーラードの装いで掲載されている本なのです。
(ちなみにプロのモデルの人は一人もいません)
僕もその一人としてこの本に登場しています。
大型本で1万円もしますが、機会があったら是非本屋で手に取ってみてください。
他にはない、なかなかスゴイ本なのです。
なんつったって英国サヴィルロウの老舗ヘンリープールにも置いてありますから。

imgインタビューは前半と後半に分かれていて今回はその前半

今回はその本のディレクションを担当された河合さんとの対談でした。
僕は伊勢丹で河合さんにナンパされて(笑)この本に出ることになったのです。
そんな経緯もあって、なぜかダーバンのWebコンテンツとして河合さんと対談することになりました。
自分のスタイルについて語ってくださいという依頼内容。
お洒落な人って自分の服にポリシーを持っている人が多いですよね?
しかし僕は自分の服にポリシーはあまりない・・・汗
(スタイルにはありますが、服にこだわりはあまりない)
ポリシーがないことがポリシーみたいな 笑
だから聞き手が知りたがるような、ファッションに対する確固たるダンディズム論のようなものはあまり持っていないのです。
イタリアだと決めたらナポリとフィレンツェの服ばっかり、イギリスだったらすべて英国製のみ、アメリカ好きだったらサウスウィック製のシャツじゃないと許さないみたいな人、たくさんいますよね?
それがダンディズムかというと違うように思うのです。
モノは、ただのモノでしかないですから。
僕はそうしたグループのどこにも属さないと思います。
日本に住んでいる良さを享受する、自由なスタイルが好きです。

まあ、そんな細かいどうでもいいことは置いておいて、、、、
対談インタビューの記事は簡単に読めますので、皆さん時間があったら読んでみてください。
↓↓
http://www.durban.jp/magazine/interview/vol/000251/

リンタロのデザインが学年代表に

松本 知彦 for Private Time/2015.07.30/私の履歴書私の履歴書

ある日の晩、携帯にリンタロから電話がありました。
その時、僕は友人に誘われて青山のスパイラルの地下にあるCAIでライブを見ている最中でした。
電話が鳴ったのはちょうど演奏の合間でしたが、周りが騒がしいので電話に出るために会場の外へ移動。
移動中だったこともあり、リンタロが電話で僕に何を伝えたいのかあまり把握できず・・・
家にある僕のパソコンに何かをインストールしたいと言っているように聞こえました。

最近の彼は毎日ゲームばかりしていて、部活で使うからという理由で誕生日に買ってあげたノートPCもすっかりゲームマシンと化しており、こんなことならPCを与えるべきではなかったと若干後悔しており。。
買ってあげたMacのノートブックはゲームをやるのには適しておらず、彼はサクサク動くWindowsマシンでゲームがしたいという気持ちがあるのは知っていました。
だから、てっきり自宅のWindowsにゲームのアプリか何かをインストールしたいと言っているのだと思い、
「ダメだよ、そんなの。あり得ねーだろ。」
誕生日に自分用のPCを買ってあげたのに、さらに他のマシンにゲームをインストールしたいとか、ありえねーだろと、最後まで話を聞かずに、電話越しに強い口調でダメ出しをしたのでした。
何考えてんだよ、とちょっと怒りにまかせてのダメ出しでした。

少ししたら奥さんから、入社したばかりの新卒スタッフではないのだし、ちょっとひどすぎる。リンタロが家で泣いている、とメールがありました。
新卒スタッフ?そのあとも少しやり取りしたのですがどうも話が食い違う。
何だか変だな。
ライブが終わってCAIを出た僕は、再び働くために会社に戻りました。
会社でPCを開くと、そこにリンタロからのメールが届いているのを発見。

img全部で3案出したうちの1案

img最初の案のバリエーション違い

届いていたのは、イラストレーターで作られたTシャツのデザインでした。
この夏休み、リンタロの通っている中学では、学年の生徒全員が農家に宿泊して農作業に従事する「農業体験学習」があるのですが、農家の人たちと生徒全員が着るTシャツを学校で広く募集しており、リンタロは初めてイラストレーターを使って応募用のTシャツのデザインを作ったのでした。
あとで知ったのですが、応募の締め切り日は電話をもらった日の翌日。
リンタロがかけてきた電話は、生まれて初めて自分で作成したTシャツのデザインを、会社のPCに送ったので見てアドバイスして欲しいという内容だった・・・・
たまたま外出していた僕は、そのメールを見ることができず、ゲームをインストールしたいと聞き違えて怒ってしまった。
リンタロは自分の送ったデザインがまったくダメだと言われたと思い込み、泣いてしまったのでした。

家に帰るとリンタロはもう寝ていました。
生まれてはじめてイラレで作ったデザインを見せたかったのに、、、本当に申しわけない・・・
言葉がありません。。
翌日彼は自分で作ったデザインを学校に持って行ったようでしたが、その日の夜提出したデザインを見せてもらいました。
これがよかった。
息子関係なしに、14歳が生まれて初めてイラストレーターを使って、デザインしたものとしてはよくできていて驚いてしまいました。
僕は彼にイラストレーターの使い方など、今まで1度も教えたことはないのです。
これを見た時は嬉しかったなぁ。
イラレの使い方は置いておいて、デザインの意図やアイデアに関して、頭を使った痕跡がそこに十分に感じられたからです。
重要なことはソフトの使い方ではなく、自分がどうしたいか、作る前に考えることなのです。
ソフトの使い方なんて、後からいくらでも誰でも覚えられることであって、必要なことは何をどのように伝えるべきか、考え方の訓練です。
リンタロが小学生の時、夏休みの課題を2人で何度か作ってきました。
このブログでも紹介してきましたね。

4年生 バリのアマンリゾート
http://blog.10-1000.jp/cat36/000510.html

5年生 沖縄小浜島
http://blog.10-1000.jp/cat36/000790.html

6年生 オフィスビルの模型
http://blog.10-1000.jp/cat36/000973.html

その制作プロセスの中で、彼には作る前にプランを練ることの必要性、それこそが重要だと教えてきました。
今回、隣で僕が指示したわけでも、助言を与えたわけでもないのに、その行程を1人で行ったことがTシャツのデザインに感じ取れて、ちょっと感動してしまいました。

img別案。3つ出した案のうち1つめをフロントに、これを背面に採用という結果に。

後日、応募があった20数案の中から、リンタロのデザインが選ばれたことを知りました。
誰のヘルプもなしに、生まれて初めて自分一人で作ったデザインが多くの案の中から選ばれたことは、きっと彼自身人生で忘れられない経験になるでしょう。
こうした成功体験は、彼の将来、人生にきっとプラスに働くに違いありません。
僕自身がそうでした。
そして今まで僕が教えてきたことが、小さいながらもこうした結果に結びつくというのは、親バカですけれど、本当に嬉しいことで、小さな感動がありました。
リンタロは少しづつ大人になっていきます。
そしてリンタロだけでなく、僕も彼から多くを学んでいます。

なんと30数年ぶりに小学校の同窓会

松本 知彦 for Private Time/2015.02.03/私の履歴書私の履歴書

SNSが広く普及したことで、卒業した学校の同級生や古い友人に会う機会は確実に増えたのではないでしょうか。
これはいいことだと思います。
SNSがなかったら、懐かしい友人にも一生会えなかったかもしれないし、あまり仲良くなかった人に会ったとしても当時は知らなかった違う一面が見れたり。
僕の周りでもここ3年くらい、古い友人たちが集まる機会が急増しました。
しかし、それはだいたい中学校以降に出会った人たちの話(主に大学)。
小学校まで遡ると、SNSが広まったとはいえ、なかなか会う機会はないですよね。
そもそも小学校の友人とSNSでつながってないし・・・
今回はつい最近あった僕の経験をお話します。

img小学校の校庭を歩く30数年前の僕ですよ(真ん中)

img緑が増えただけで、昔とほとんど変わっていない小学校。

気が付けば、小学校を卒業してから40年近くが経ちます 汗
引越しで違う中学へ進学したので、小学校の同級生には、卒業以来一度も会わずに、現在に至っていました。
そんなある日、聞き覚えのある名前がface bookのメッセージ欄に。
それは小学校6年生の時、同じクラスだった友人からのメッセージでした。
びっくりしました。
めっちゃ懐かしかったと同時に、嬉しかったですねえ。
よく僕を見つけてくれました。
去年の秋、彼と新宿で40年ぶりに会ったのですが(彼はイケメンになっていてびっくりしました。。。)、色々な話をしていたら、他のクラスメイトにも会いたくなってきてしまい、、、。
大部分が地元の中学に進み、何らかのカタチで同じ小学校の卒業生たちとも会っていた彼らと違って、卒業後一度も会ってないというのも、僕がみんなに会いたくなった一因かもしれないです。

img30数年前にもらった小箱。手紙も入ってましたが、ここでは出せません 汗

卒業時のクラスメイトだけを集めて会おうと思いました。
小学校の時のクラスメイトを思い出そうとすると、最初に思い浮かぶのは僕の12歳の誕生日にプレゼントの小箱をくれた女の子でした。
これを書くとみんなびっくりすると思うのですが、その時にもらったプレゼントを今も保管して持っています 笑
大事に大事に保管していた、というわけでもないですが(だったら怖い・・・)
でも僕にとっては、甘酸っぱい特別な想い出です。
彼女は今頃どうしているのかなあ。
そんなこともふと頭をよぎりました。

さて40年前のクラスメイトたちにどうやって呼びかければいいのだろう?
中学校の同窓会の名簿を借りることができたので、一部の人の連絡先はそのリストでわかりました。
でも他の中学へ進んだ人はリストにないし、連絡先がわかる人は少ない。
中学校の名簿にもない人を呼ぶにはどうすればいいのだろう?
言い出したのは僕なので、連絡は僕が行う必要があり、、、汗
小学校の時の名簿を引っ張り出して、上から順番に電話をかけていきました。
しかし40年前の名簿ですからね・・・既に引越している人もたくさんいます。
でも一部の人はご両親(主にお母さん)が電話に出られた。
そこから今回の趣旨を話して、子供へ連絡していただいて、、という流れになりました。
今のご時世、振り込め詐欺もいますからね、「私は小学校の6年4組のクラスメイトで、、、」という冒頭に話す自己紹介のくだりは明らかに怪しい・・・笑
でもこれで5人くらいのクラスメイトの連絡先がわかりました。
大変だったなあ

imgクラスの名簿が掲載されていた卒業文集もちゃんと保管してありました。

imgクラスメイトたちに書いてもらったサイン帳。最終ページには担任の先生からメッセージ。

36人のうち20人近くの連絡先がわかって、1月末に卒業した小学校の近くのお店で同窓会を開く運びとなりました。
40年ぶりに再会する奇跡のような会でした。
あんまり変わってない奴はわかりましたが、会っても名前を言ってくれないと、誰だか全然わからない人も 笑
楽しい時間でした。

小学生の時、誕生日にプレゼントをもらった前述の女の子(現在は違いますけど 笑)、、、とっても元気でした。
同窓会の前、30数年前の誕生日にもらった箱の話、甘酸っぱい自分の思い出(笑)を彼女に少しだけ伝えたんですが、同窓会で会った時になんと新しい小箱をもらいました。
小学生の小箱は、可愛いサンリオグッズと手縫いのミッフィでしたが、大人の小箱はチョコレートでした 笑
彼女曰く、40年ぶりの小箱だそうです。
サプライズで洒落が利いてますね。
小学校の時の甘酸っぱい思い出は40年の時を越えて、こんな形で追体験に。
嬉しかったです。

img松本家は何でも保管してある 笑。これは遠足の写真。注文する袋が懐かしい。

こんな経験、みんながみんな、できるものではないと思います。
小箱のエピソードはともかく、仮に5年後にクラス会を開こうと思ったとしても、集まれるのは今回の半分くらいの数に減ってしまうかもしれません。
思い立った時に行動すべきです。
僕にとっての宝物のような大切な思い出、
集まる前に、みんなと連絡を取って話をした中で感じたのは、みんなも僕と同じように、小学校で過ごした時間は大切な宝物だと感じているということでした。
30数年の時を超えて、それを再びみんなと共有できた時間は素晴らしいものでした。

小さな夢の実現 ロンドンへ その4

松本 知彦 for Private Time/2015.01.27/私の履歴書私の履歴書

前回の続き

「知彦、これ進めてくれるか?」
すべてはこの言葉から始まりました。
既に寝たきりになっていた父は、単行本「たばこ屋の娘」の出版を、息子である僕に託したのでした。
しかし、僕にはこの言葉が「たばこ屋の娘」の出版だけでなく、それ以外の何かを息子に託そうとする言葉のように聞こえてならなかった。
それまで一切家族に話さなかった、触れさせなかった自分の仕事を、初めて息子に依頼した言葉だったからです。
父が仕事のことを僕に自分から話したのは、これが最初で最後でした。
とても短い言葉ですが、僕にとっては特別な響きを持った言葉のように聞こえたのです。

img「たばこ屋の娘」に収録されている「花の新宿」

img2年前に出版されたフランス語版「たばこ屋の娘」

img昨年出版された「花の新宿」の英語版

思えば僕は、家族として接する父の姿しか知りませんでした。
父の仕事について、家庭での父親として以外の彼について、まったくと言ってよいほど知らなかった。
家庭内で、マンガの本や仕事の話はタブーであり、父親は、家族を仕事から常に遠ざけようとしていたように思います。
亡くなる3ヶ月前に聞いた言葉によって、それがゆっくりと動き出した。
父のことを調べていく過程で色々なことを知り、父が残した作品をカタチにしよう、そんなことを考えるようになりました。
その想いは最終的に、小学館からの作品集の出版へと繋がっていきます。

しかし本を作りたいという気持ちがあっても、1つの大きな課題がありました。
作品を掲載して見せるだけでは、伝わらない部分があるということ。
それは作品が世に出てから、60年も経過していることに起因しています。
発表当時、いくら革新的な表現であったとしても、その後に登場した多くの作家によって模倣され、磨かれ、進化し、現代では極めて当り前の手法になってしまっているという問題です。
作品を見せただけでは、多くの人には、ただの古臭いマンガとしてしか映らない。
それは名作と言われる1950年代の古い映画を見ている感覚と同じでしょう。

作品が発表された当時のインパクトを伝えるためには、どうすればいいだろう?
そのヒントは、父の生前のインタビューの中にありました。
「作品が登場した時の斬新さは、当時リアルタイムでそれを見た人、体験した人の言葉を羅列することでしか現代の人に伝えることはできない。」
当時リアルタイムで父の作品を読んでいた人に会おう、その考えに至ったのは自然の成り行きでした。
しかし、父の仕事に対してまったく感知していなかった自分にとって、この進行は相当に大変なものとなります。
当時誰が父の作品を読んでいたのか、その中で誰に会いに行けばよいのか、彼らの名前も、住所も連絡先もわからない、それを調べる作業からやらなければなりませんでした。
まったく知らなかった父の仕事、息子が知らなかった父親の違う側面、1枚1枚ベールを剥がすような作業は、驚きと発見、そして郷愁が混じり合う不思議な体験になったのです。

すべてを手探りで進めなければならない作業は、非情に時間がかかる上に困難で、諦めようかと思ったこともありました。
そんなとき、何度も助けられた言葉があります。
この言葉があったからこそ、本を作る気持ちを持ち続けることができた。
迷ったとき、いつもこの言葉に立ち返って、自分がやっていることは間違っていない、そう確信して再び前に進もうという気持ちになれました。
常に僕を勇気付けてくれた。

img1978年に書かれた桜井さんの本。

imgその中に父を紹介している記述があります。

以下抜粋
------------------------------------------------------------------------------------------------------
毎日新聞のベストセラー調査で3位に入った松本の作品は、「サボテンくん」と言った。
僕や辰巳が八興に寄稿していた作者たちの中でもっとも興味を持ち、影響を受けたのは彼の作品だった。
松本の作品は、新人作家が誰でも持っていた手塚治虫の影響からも既に脱し、独自の表現領域に足を踏み入れつつあると感じられたのである。(中略)
現在の劇画の手法は松本のマンガからはじまり、中間で多くの作者の工夫の積み重ねからなっているのである。
僕は何事も革新は出来上がった秩序の修正や手直しからは生まれず、どろどろとした異端なものの中から発芽するものだという確信を持っている。
その意味で、松本正彦は現在の劇画に至る当時のマンガの真の革新者だったと言いたいのである。
(桜井昌一「僕は劇画の仕掛人だった」 1978年 エイプリル出版)
------------------------------------------------------------------------------------------------------

マンガ家であり、評論家であり、辰巳ヨシヒロさんの実兄、劇画工房のメンバーでもあった桜井昌一さんの言葉でした。
父がいなくなったあと、父親の部屋の本棚にひっそりと差し込まれていた1冊の本の中に、この言葉を見つけた時は、とっても嬉しかった。
大いに勇気付けられました。
桜井さんは既に亡くなられていましたが、住所を調べて、お宅にお邪魔させていただきました。
桜井さんの奥さんにお会いして、当時の貴重なお話を色々伺う中で、奥さんが父の母親(僕の祖母)とも交流があったことがわかって嬉しかった。
仏壇にお線香をあげながら、僕はあることを感じていました。
父が僕をここへ来させたのかもしれない、僕は父の代わりにここへ来たんだ。
仏壇の前で、ありがとうございますと桜井さんに伝えながら、きっと生前父もそう思っていたに違いない、と心の中で感じていました。
続く・・・

その1はこちらから。

その2はこちらから。

その3はこちらから。

小さな夢の実現 ロンドンへ その3

松本 知彦 for Private Time/2014.12.17/私の履歴書私の履歴書

前回の続き
葬儀の当日、本人の作品集が完成する。
こんなことがあるのです。
父が70年代に発表した作品を集めた本を、自費出版で作ってくださった浅川さんと大西さんには本当に感謝しています。
父親としての父以外の姿を、はじめて僕に教えてくれたのも、このお2人でした。

img自費出版を経て、正式に出版された「松本正彦短編集 たばこ屋の娘」。

img新宿、そこには僕が生まれた街。そして家族と過ごした場所が描かれています。

僕がそれまで目にしたことも読んだこともない、70年代の作品を集めた「たばこ屋の娘」は、自費出版を経て、その後出版社から正式に出版されました。
何も起きない日常を描いた、味わい深い作品群は父親の性格を色濃く表わしています。
父親が雑誌に書いたエッセイの中に、「この世界は美しい」という言葉がありますが、そう感じていたからこそ、こんな作品が描けたのだと思います。
日常の時間を慈しみ、噛み締めて味わうような表現は、父が生み出した劇画とも異なる、父の中でのもう1つの到達点と言えるでしょう。
読後感にじんわりと押し寄せる郷愁は、父がいなくなった現実とシンクロして感慨深いものがありました。

img味わい深い情景は僕の育った街でありながら、誰もが持つ東京の懐かしい心象風景のようにも思えます。

img新宿駅の周辺は僕にとって個人的な思い出がたくさんある街。

マンガはフィクションの世界です。
でもこのマンガの中には、僕が生まれて育った新宿中落合の情景や、父親とよく行った新宿駅周辺の街並が時々登場します。
小学校の頃、毎日歩いた通りやアパート、そこに作品が描かれた70年代当時の空気を感じることができます。
生活情景とも言える描写はやたらとリアルで、個人的にはとても懐かしい。
なぜか踏切が多く出てくるのも特徴でしょう。
踏切の音や動きが、物語の中でアクセントとして描かれています。
このリアルな感じはなんでしょうね。

imgこういう踏切も今どんどん少なくなっているかもしれませんね

父が僕に出版を頼んだ短い言葉から、色々なことがはじまりまったように思います。
それまで僕は、父の仕事についてまったくと言っていいほど知らなかった。
知らないというより、知らないようにしていたと言う方が正しいでしょう。
家庭内では父の仕事はもちろん、マンガ全般がタブーでした。
父親の手前まったくマンガは読まなかったし、読むことを禁止されてもいました。
自分の父がマンガ家であるということが嫌だった。
大人になる過程で、誰にもそのことを言わないようになっていきました。

家庭での父はとても優しい人でした。
子供の頃から怒られたことなどほとんどなかった。
しかし幼い頃から働く母を見て育った僕は、父の仕事を認めるわけにはいきませんでした。
結婚すれば専業主婦が当たり前の時代、男として主として、それでいいのだろうか?という気持ちが常にありました。
決して父が怠慢なわけではないということは、大人になってから理解することができました。
しかし作家性というものがありながら、出版社からはアクションが流行ればアクションマンガを、言い換えれば常に数字だけを求められる仕事の中で、金のために自分の志を曲げてまでやりたくない、作家としての頑固な性格は、徐々に父を孤立させていったと思います。
そんな姿しか知らない僕に、作家としての父の仕事のことを最初に教えてくれたのは、先に書いた浅川さんと大西さんでした。
父の仕事が素晴らしいということ、自費出版までしてそれを世の人に伝えたいなどという、たぐい稀な人が世の中にいる、その事実に僕は本当に驚愕してしまった。
信じられませんでした。
2人から聞く父の話は、僕が知っている父ではなく、僕のまったく知らない、どこかの別の作家の話でした。

父の病気がわかってからしばらくして、僕は色々な人に会うことにしました。
それは他人から聞かされて初めて知った自分の知らない父のことをもっと知りたい、そんな気持ちに動かされたということもあるでしょう。
しかし本当は、それまで父の仕事について無関心で全く知ろうともしなかった自分、むしろその職業を憎んでさえいた今までの自分への懺悔の気持ちが含まれていたのかもしれません。
かくして父親を知る旅は、こうしてスタートしたのでした。
続く・・・

その1はこちら。
http://blog.10-1000.jp/cat36/001156.html

その2はこちら。
http://blog.10-1000.jp/cat36/001182.html

小さな夢の実現 ロンドンへ その2

松本 知彦 for Private Time/2014.11.27/私の履歴書私の履歴書

病名は胃癌でした。
少し前から父が物を飲み込む時に違和感があり、医者に行っているということは母から聞いていましたが、まさか癌だとは思いませんでした。
しかも診断の結果は、フジテレビアナウンサーの逸見さんが亡くなった病気と同じ、進行が早いスキルス性の胃癌だということ。
この時、父は68歳。銀座の画廊で個展を開催している最中でのことでした。

このままの状態で切らずに治療を行うか、胃を切除する手術を行うか、どちらかの選択を迫られました。
後者の方が治る確率は高い、しかし癌の進行はステージ1かステージ3、どちらなのかは開腹してみないとわからない、医者からはそう告げられました。
家族としては当然治って元気になる可能性がある方を選びたい、それ以外に選択肢はありませんでした。
入院して抗がん剤による科学療法が始まり、そのあとに胃を全摘出する手術を受けることに。
手術後、見える所はすべて取ったと担当医からの報告を受け、切除した部位も見せてもらいました。
それは所々が変色した小さな内蔵の一部でした。
小さいなあ、これが人の命を奪ってしまうかもしれないくらいのインパクトを持っているのか。
人の命は儚い、そんなことを感じました。
手術後、入院したまま再度抗がん剤の治療を受けて父は無事退院しました。
抗がん剤の治療は身体にもそうですが、精神面にもダメージを与える治療で、病院にいる時は精神的に心配な状況もありました。
でも退院後、自宅に帰ってきた父は元気そうに見えました。

これで取りあえずはよかった。
同じく胃の全摘手術を受けた王監督の元気な姿をTVで見て、父も同じようにこれから快方に向かっていくと家族みんなが思っていました。
しかしそんな気持ちとは裏腹に、日を追うごとに父の体調は悪化していきます。
退院後、自宅に帰ってきた頃は散歩もしていましたが、3ヶ月もすると自力で歩くことも厳しくなってしまった。
病院にも行けなくなり、あっと言う間に寝たきりの状態になってしまいました。

病気がわかって入院する前、父は自分の荷物を整理して、たくさんの物を捨てていたと母に聞きました。
大好きだった落語のカセットテープもほとんどを捨ててしまっていた。
僕は毎週実家に帰り、できるだけ父と一緒にいる時間を持つようにしました。
電動で上半身を起こせる機能がついた専用のベッドを自宅に入れる前、自分のふとんで寝ていた父の枕元には、20代の時に描いたマンガの単行本が2冊、目につかないように机の下にそっと置かれていたのを僕は見逃さなかった。
父はマンガ家として最も輝いていた頃の本を押し入れの奥からそっと持ち出して、手に取って何を感じていたのでしょうか。
父の人生の半分はマンガと共にあったのです。

img少し前に話題になったパンダラブーも最初は自費出版からでした。

父が70年代に描いたギャグマンガの単行本「パンダラブー」が、30年の時を経て2000年に再版され、マンガファンの間でちょっとしたブームになったことがありました。
それは編集者である浅川さんと、評論家であり、中野でタコシェというマンガ販売店を経営している大西さんの2人が、父の許可を得て自費出版を行い、その後正式に出版社から出版された本でした。
彼らは次に、父が70年代に週刊誌に描いていた叙情的な作品を集めて、再び自分たちで自費出版したいと父に依頼していたようですが、僕はパンダラブーが出版された経緯も、その他の70年代の作品の自費出版の依頼の話もまったく知りませんでした。
寝たきりになってしまった父は、自分ができなくなった70年代の作品集の出版の進行を僕に託します。
「知彦、これ進めてくれるか?」
とても短い言葉でした。
父に言われるまま、作品の場所を探し、お二人に会い、父から引き継いで自費出版の話を進めました。
でも残された時間は少ないことは、見るからに明らかでした。
聞きたいことは今のうちに聞いておいた方がよい、医者からそう告げられた僕は、父が1950年代に描いた作品、そして父が到達した表現、駒画について聞くことに努めました。

img葬儀の当日に完成した父の70年代の作品を集めた自費出版

本当に早かった。
手術をしてから、階段を転げ落ちるように病状は悪くなっていきました。
術後、1年もしないうちに父は逝ってしまった。
こんな結末がわかっていたのなら、あの時手術の選択をすべきではなかったのではないか、何度も何度も自問自答しました。
浅川さんと大西さんが企画してくれた70年代の作品を集めた自費出版は「たばこ屋の娘」というタイトルで、父の葬儀の当日に出来上がりました。
病状は2人に伝えていましたが、結局父はこの本の完成を待たずに逝ってしまった。
表紙の色校が上がったとき、父は看護婦さんに少しだけ自慢していたと母から聞きました。
元気な時の父は、そんなことをする人ではありませんでしたから、ちょっと微笑ましいエピソードだと思います。
出来上がったばかりの自費出版の本は、葬儀の会場で参列者の皆さんに配られました。

自分の作品集が葬儀の当日に出来上がる、、そんなことがあるのです。
僕は涙が止まりませんでした。
続く・・・

その1はこちら。
http://blog.10-1000.jp/cat36/001156.html

小さな夢の実現 ロンドンへ その1

松本 知彦 for Private Time/2014.09.17/私の履歴書私の履歴書

僕の父親は昔、漫画家でした。
世間にその名前を知られた時代もありましたが、今では本当に一部の人しか知らない漫画家です。
彼の名前が知られていたのは僕が生まれる前、大手が少年ジャンプやマガジンなどの週刊誌を出版する前の時代、1950年代に隆盛を極めた貸本というジャンルでのことでした。

imgロンドンのカートゥーンミュージアムで展覧会を開くことになりました。

今と違って、フリーのクリエーターという職業は、明らかにマイノリティだった時代。
社会的に相当なハンデがあったはずです。
300人がマンガ家になることを目指しても、なれるのは100人、そのうちきちんと収入が得られて残るのは1人くらいでしょう。
仮に売れたとしても、そのうち収入はゼロになり、廃業を余儀なくされてしまう厳しい世界。
学校の校長先生であった厳格な父(僕の祖父)に猛反対され、読んでいたマンガを目の前で破り捨てられた経験をしても、なぜ彼がマンガ家という職業を志したのか、その理由はわかりません。
しかしそこには覚悟があったと思います。
そして、その後には悔しさや諦め、後悔もあったかもしれません。
父親は覚悟を決めて飛び込んだであろう自分の職業について、晩年は卑下していたと母に聞きました。
そこには色んな思いがあったんだろうと思います。

自分の子供時代、家庭は経済的に困窮していたはずですが、それを僕に気づかせず、一家の生計をサポートしていたのは母でした。
母は僕が物心着いた頃からずっと働いていて、家にいない時も少なくありませんでした。
結婚すれば、ほぼ全員が専業主婦の時代に、他の家庭と自分の家が明らかに違うことを感じ取ってはいましたが、それについて自分から質問することはありませんでした。
そして父の仕事についてもほとんど感知することなく、いえ見て見ぬ振りをしながら僕は徐々に大人になって行きました。

その父が2005年に亡くなります。
父が病床で最後に僕に託したこと、それが70年代の作品を集めた単行本「たばこ屋の娘」の出版でした。
既に寝たきりになっていた父は、編集者とのやり取りを自分に代わって息子である僕に依頼したのでした。
「知彦、これ進めてくれるか?」
本当に短い言葉でした。
父が仕事のことを自分から僕に話したのはこれが最初で最後です。
それまで一切自分の仕事について息子に語ったことはありませんでした。
この短い言葉が特別な響きを持って、今も僕の耳にずっと残っています。
この時まで僕は父の仕事に関して何も知らなかった。
そこから父を知っている人たちに会い、父のことを調べ、父に関する活動を少しずつはじめるようになり、今に至ります。

img

img父が70年代にビックコミックに連載していた「劇画バカたち」。その原画もロンドンで展示します

いくつかわかったことがあります。
父親は、さいとう・たかをさん、辰巳ヨシヒロさんと3人で大阪、東京の同じアパートで一緒に生活しながら作品を描いていたこと。
その中で劇画という表現を生み出し、それが今のマンガの発展に大きな影響を与えていることを知ります。
そして劇画という表現を、世界で初めて作ったのは父親だったという事実も知ることになるのです。
父は劇画に先駆けること1年半、劇画のルーツである駒画という表現に到達していました。
これを知った時、父親が祖父の大反対を押し切ってでもやりたかったことは、これだったのではないかと瞬時に感じました。
劇画が生まれた背景には、新しいことを作り出そうとする父の真摯で激烈な想いを感じることができます。
この事実を知った僕は、劇画が登場した当時の息吹、想い、葛藤を1人でも多くの人に知ってもらいたい、そう思うようになりました。
父だけの作品ではなく、さいとうさんや辰巳さんの作品も含めて、劇画の革新性を世に伝える活動、劇画が今のマンガに及ぼした影響を認知してもらう展示をやりたいと、密かに思うようになりました。
しかし周りの関係者にこの話をしても、誰一人として展覧会の企画に賛同してくれる人はいませんでした。
ビジネスにならないからという理由だと思います。
でも僕はあきらめませんでした。
仕事をしている時でも、展示のことはいつも頭の片隅にありました。

劇画=さいとう・たかをさん、日本ではそう見ている人がほとんどです。
その表現がいつ、どこでどのように生まれたのか、スタート地点には何があったのか、それを知る人はいません。
興味を持つ人もいないからビジネスにはならない。
駒画についても、多くのマンガ評論家は呼び名が違うだけ、劇画vs駒画という構図でしか捉えておらず、その関係性について正確に論述されている書籍は1册もありません。(読み手側に興味がないので書く必要も無いのでしょうけれど。)
先行する駒画は革新的な表現やコンセプトだけを残し、後からやってきた劇画に飲み込まれていきますが、「駒画と劇画は同じもの」生前父はそう言っていました。

img叫ぶさいとう・たかをさん。1950年代の父自身の言葉でしょう。

父親が飛び込んだマンガの世界、そこで到達した新しい表現。
それを押し進め、既存の表現を乗り越えていった多くの作家たち。
そんな内容を紹介する展示を海外で開くことはできないものか。
長い間、胸の奥に秘めて来た想いが、とうとう今月ロンドンで実を結ぶことになりました。
構想から8年くらいが経過していますが、ようやく形になるのです。
ここまで長い道のりでした。
http://cartoonmuseum.org/exhibitions/current-exhibitions/gekiga

小学校のTシャツ AGAIN

松本 知彦 for Private Time/2014.07.23/私の履歴書私の履歴書

去年、リンタロが通っていた小学校が85周年を迎えました。
それを記念して周年誌を作ることになり、僕はアートディレクションを担当しました。
以前このブログでも紹介しましたが、その際に表紙用に水彩画を描いたのです。
http://blog.10-1000.jp/cat36/001091.html

img85周年用に描いたイラスト

imgこちらが完成した周年記念冊子。

これがなかなかに大変で、かなりの時間を使いました。
その絵が、な、なんと、今年はTシャツになって販売されることに。
思えば、去年も小学校のTシャツのデザインを担当したのでした。
それが700枚も売れて、大成功を収めたのですが、今年も新しいTシャツを販売するとのこと。
今年は、周年誌の表紙用に描いた絵が使われることになったようです。
僕は今もう副会長ではないので、PTA活動に関与してないですが、2年続けてTシャツのデザインが採用されるなんて、なんだかPTA活動をまだやっているような気分です・・・
でも子供たちによると、父親の描いたTシャツを着るのはちょっぴり嬉しいみたいです。
今年は売れたのかなあ。

imgこちらは色を塗る前の線画

img今年販売されるTシャツです。デザインは僕じゃないですが。

周年誌を作っている時に、自分が通っていた小学校の卒業文集を思い出していました。
僕は新宿生まれで小学校も新宿ですが、1年間だけ小平という場所に住んでいたことがあり、それが5年から6年生の時だったので、卒業だけは小平の小学校でした。
その小学校では卒業文集と卒業アルバムが別になっていて、卒業文集の方は全部生徒の編集によって制作され、表紙も卒業生が描くと決まっていました。
先生からだったか、生徒からだったかと覚えてないですが、表紙の絵を描くという役に指名されたのが自分でした。
確かに美術の成績だけは常にトップでしたから。

img数十年前の卒業文集です。

img表紙制作中の12歳の松本少年。こたつで描いてますね。

それで描くことになるのですが、何を描いていいのか、12歳の自分は悩みました。
学年の生徒全員が普段から使っていて、卒業した後にもそれを見た時、ああ、そうだったなぁとみんなが思い出すもの。
そして絵的にも、表紙としてふさわしいモチーフ。
父親にも相談したと思います。
最終的には、みんなが6年間毎日使っていた机の絵を描くことにしたのでした。
題字も描きました。
自分のクラスの扉として、先生とクラスメイト全員の似顔絵も担当しましたね。
小学校のクラス会は1度もないのでわからないですが、みんな今頃どうしているのかなあ。
僕は1年間しか住んでなかったから、もしかすると呼ばれてないのかもしれないなあ。

img文集に載った小6のポエム。挿絵も自分。しかし字が今と変わらない 笑

そんなことを思いながら、周年誌の絵を描いていました。
あれから何十年も経って、また小学校関連の表紙を、しかも自分の息子の小学校が発行する冊子の表紙を描くなんて、まったく予想もしていませんでしたねえ。
不思議な経験です。

「劇画バカたち!」フランス語版が出版されました

松本 知彦 for Private Time/2014.05.22/私の履歴書私の履歴書

先日、フランスから会社に段ボールが届きました。
なんだろう?と思って中を開けてみると、、、、これが父親の漫画でした。
父の本がフランス語版になったのでした。

imgフランスから届いたのは父の本でした。

img元となったのは単行本「劇画バカたち!」

元になったのは「劇画バカたち!」という作品で、父親が1979年から小学館のビックコミックに連載していたものです。
2009年に青林工藝舎から再販されました。
現在アマゾンでも買えますので、興味のある方は是非読んでみてください。

作品の内容は、まだ劇画という言葉がなかった1950年代、大阪の日の丸文庫に集まった若い漫画家たち、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦の3人がそれまでのマンガに代わる新しいマンガを生み出すために、文字通り馬鹿のように夢と人生を賭けて打ち込むという、劇画誕生までの物語です。
厳密に言うと父親が「駒画」という名称とコンセプトを最初に考案し、それが2年後の辰巳さんの「劇画」につながり、最終的にはさいとうさんのゴルゴ13などの作品によって日本中に定着しました。
まるでバトンを渡しているかのようですが、3人の志向性がよく表れていると思います。
「劇画バカたち!」から16年後、辰巳さんも同じテーマで「劇画漂流」という作品を描いていますが、こちらも「劇画バカたち!」から着想を得ているのは間違いないでしょう。
作中には、巨人の星の川崎のぼるや楳図かずおなども出てきます。

imgこちら日本語の「劇画バカたち!」

img同じページのフランス語バージョン

img日本版と比べると、大きさも厚さも違います。

img表紙のデザインも。

しかし25年も前に描かれた作品がフランス語になるなんて。
フランス版は日本の単行本よりサイズが大きくて、ハードカバーで立派です。
日本のマンガは、フランスではアートとして見られるのでしょうね。
巻末にはさいとうさんのインタビューが収録されていますが、これもフランス語訳されています。
このさいとうさんの言葉に、クリエイティブと経済活動という、現在自分が抱えているテーマが出てきて興味深いです。
「自分は最初からプロの仕事としてマンガを考えていたし、そういう風にしか描けないが、松本や辰巳は自分が描きたいから描くという作家たちで、それがすごくうらやましかった。」
でも、結果的にたくさんのお金を手にしたのはさいとうさんだけです。
それが最終的に良いのかどうかは別として。

imgこちらもかなりのページ数。読み応えあります。

もう1冊、大阪のブレ―ンセンターから出版された「再び大阪がまんが大国に蘇る日」という書籍も、ほぼ同時に届きました。

こちらは貸本時代に隆盛を極めた大阪のマンガについて書かれた本です。
東京の大手出版社が参入してくる前、貸本漫画の時代までは、手塚治虫をはじめ、劇画もそうですが、関西から日本を代表するマンガ家や新しい表現が数多く生まれました。
この本はその時代のこと、大阪がマンガ表現・発信の中心地だった時のことについて書かれています。
冒頭、一番最初に出てくるのが辰巳さんと父親のインタビューです。
本の内容は、かなりマニアック。
マンガの研究者や相当好きな人でないと、ついていけないかもしれない内容ですね。
そんなに売れる本ではないと思いますが、1人でもこうした事実に触れて、興味を持ってもらえたら嬉しいです。

貸本・・・・駒画・・・・劇画・・・・
いま日本を代表する文化となったアニメや漫画、その源流を作った漫画家たち。
父たちが作ったこうした日本独自の文化を、一部のマニアックな人だけでなく、日本のたくさんの人たちに知ってもらいたい、今海外から注目される日本マンガの歴史、出発点を世界の人にもっと広く知ってもらいたい、そんな想いが最近、自分の中に起きています。
そのために海外でこうした劇画の展示を行えないだろうか?そんなことを今少しずつ考えはじめています。

ディープな漫画家二世会

松本 知彦 for Private Time/2014.04.18/私の履歴書私の履歴書

僕の父は漫画家でした。
売れない、誰も知らない漫画家でした。
子供の時からそれが物凄いコンプレックスで、嫌で仕方がなかった。
しかし自分の持つアイデンティティは、間違いなくそこからスタートしています。
よい意味でも悪い意味でも、自分に一番大きな影響を与えたのは、父親でした。
クリエイティブと幸せ、そして経済活動。
やりたいこと、嫌でもやらなければならないこと。
それらが大人になって社会に出た自分にとって、人生における最も大きなテーマでした。

img手塚真さんと一緒に。

僕が仕事をしていくうえで、常に頭にあるのは父親のこと、そう、クリエイティブと経済活動によってもたらされる幸せについてでした。
長い長い間、そして今もそのことが常に頭から離れません。
最終的にどうなったら成功というのだろうか?いったい何のために働くのだろうか?
人によって、その問いに対する回答は違うでしょう。
特異な環境に育った自分にとって、こうした答えの出ない内面の葛藤を共有できる人を探すことはできませんでした。
共有も何も誰にも話せなかった。
父がみんなが知っている売れている作家だったら、自慢できる作家だったらよかったのに、と子供の頃には思いながら育ちました。

5年くらい前、とあるパーティで横山まさみちさんの息子さんに会いました。
僕が人生ではじめて会った漫画家の息子でした。
共通の話題などなくても、会った時から僕は彼にある親近感を感じていました。
ある意味、自分と共通の感覚を持っていたからです。
父親同士が知り合いだったというのも親近感を感じる要因でした。
もちろん僕の父親なんかより、ずっと有名な漫画家の息子なのですが、同じ職業に就いていた今はこの世にいない父親の息子、というだけで、共感できる感覚があったんです。
それが嬉しかった。

img真ん中が横山まさみちさんの息子さん

imgジョージ秋山さんの息子さんと。

彼から漫画家の二世だけが集まる二世会という会合があることを聞かされました。
一緒に行こうと誘われたんですが、そんな会に全然有名ではない漫画家の息子である自分が行くのは場違いだと感じ、、、、、、
でも、ひょんなことで知り合った上村一夫さんの娘さんにも誘われて、今回はこれも縁だと思って行ってみることにしました。
これが・・・・・・
すごい会でした。
店も壮絶でしたけど、来ている人も。
手塚治虫さんのご子息兄妹、赤塚不二夫さんの娘、ちばてつやさんの息子、水木しげるさんの娘、タツノコプロの娘さんたち、ジョージ秋山さんの息子、ビッグ錠さんの息子、そして前述の上村さん、横山さんなどなど、集まったのは漫画家の二世たちだけ20人くらい。
全員が二世なので、横山さんに会った時に感じたような親近感なんて感じる暇もなく、、、、同じ二世というだけで共通の感覚があるはずと勝手に思い込んでいたのは僕の思い過ごしだったのだと思いました。
一人一人とゆっくり話す時間もなかったので、そこまでわかりませんでしたが。
まあ、無名の漫画家の息子とレベルが違いすぎるので、彼らには彼らだけの共通感覚があるのかもしれません。

img赤塚不二夫さんの娘さんと「シェー!」

とても不思議な会でした。
みんなバラバラなのもそうですが、全員が全員異端な感じで、(自分含め)生きていくのは大変だろうなあと勝手に感じたり 笑
父親がビッグネームだと、その子供は大変というのはよく聞きますが、僕にとってはまったく有名じゃない父親の息子と比べれば、天地の差でいいじゃないかと。笑
前述しましたが、有名なら成功か?幸せか?という視点で見れば、単にそれがよいとも言えないという側面もあるかもしれません。
でも僕にとっては、それはやっぱり才能がある人がやり遂げた結果であり、そうした父親を持つことはその子供にとって葛藤はあるかもしれないにせよ、素晴らしいことだと思うのです。

profile

recent entry

category

archive

saru

ページトップ
表示切替:モバイル版パソコン版